YuOkumura’s blog

日々のこと。暮らしのこと。好きなこと。仕事のこと。写真のこと。

山に身を置く。今を生きる。

〝いま〟を今ほど感じられる、感じさせられる日々もそうそう無いことだと思う。

 

僕たちが日々楽しみにして過ごしてきた時間や日々は、暇つぶしの延長だったのではないかと思ってしまいそうだ。これだけ自由が制約され、外的刺激を受けられない、いま。しかし、今、僕たちはより深い内的探究と無限に広がる思想の宇宙を、両手両足を目一杯に広げて飛び回ることができる。

 

ただでさえ自分と直に向き合うことは気が向かない事が多いのに、いまの状況で自分を見つめ直しりするなんて、なおさら気が向かない。僕自身、生きていて気分が下がる事はなかなか無いが、この状況、鬱になる人の気持ちが分かる。気が抜けない。自分の世界の外にポジティブなニュースがほとんどない今、自分と向き合うことはすなわち〝不安〟と向き合うこと、不安を受け入れることだ。不安な自分を受け入れるのは怖い。できればブログなんか書かずに、YouTubeやインスタ、映画なんかを見ていれば現実を見なくて済むし、自分と向き合うことからも逃げられる。実際、自分の考えを一度まとめよう、まとめなきゃと思いながら、他の用事で後回し後回しにし、逃げた。

 

上手く書けないかもしれない、まとまらないかもしれない。でもとりあえず書き出してみた。書くことは僕の中で、頭で漠然と思っていることや、心や身体でなんとなく感じていることを具体化する作業。不安を具体化するには勇気がいる。不安を受け入れないといけないからだ。でも少し書き始めると意外となんとかなるものだ。文章の勢いに任せて書いてみよう。

 

何事もなかったあの頃の日常。ありがたみを感じるのはいつもそれがなくなったあとだ。怪我や病気をして初めて健康であることに感謝することと全く同じだ。忙しい、忙しいと言いながら出来ることはたくさんあった。美しい美しいと思いながらそれは本当に心から美しいと思っていたか?ご飯を食べる時の頂きます。いまなら心から言えるのではないか?漠然と日々を過ごしてはいなかったか?挑戦できることや、自由に動き回れる環境があれほどあったのに。稼ぐことばかり考えてなかったか?どう生きるかも考えずに。本当に大切なことってなんなのかな?いまが考える時だ。

 

人々が経済的な意味で動くことをやめ、肉体的な移動も制限され、イベントやお祭りも中止。家にただ籠っているだけでよい僕らはクソほどのんきだ。日々最前線で命をかけて闘っている人がいる。その人にも大切な家族がいる。自分勝手な行動なんてできない。ただただ我慢しよう。自分の大切な人を失う前に。

 

ただ、そんな僕らでもできる事がある。自分と向き合うことだ。外からの刺激はほとんど受けられないけれど、自分と向き合うことはいくらでもできる。内的な刺激だ。仕事の忙しさや、どうでもいいような用事で、僕らはいつも大切なことを蔑ろにしてしまっていた。生きるってことはまずは自分と向き合うことだ。幸せになりたいだの、健康でいたいだの、楽しく生きたいだの、それぞれの人にいろんな人生の価値観があるけれど、まずは自分だ。自分がどうありたいか、どう生きたいかだ。それを改めて考える時間が〝いま〟にはある。

 

不安や希望を全部ひっくるめてもう一度考えてみる。怖いけれど自分と向き合ってみる。考えろと地球に言われている。

 

実際、家族以外の人にほぼ会わず、コンビニにもスーパーにも行かず、外に出るといったら犬の散歩と畑に行く時だけだ。田舎だから人にはほぼ会わない。北海道から実家のある長野に帰ってきてそろそろ1ヶ月経つ。1ヶ月してようやく生活に慣れてきた。ブログを書こうと思えたのも1ヶ月という期間が、身体と心を今の状況に適応させてくれたからだ。怪我をしても、大体いつも1ヶ月という期間が回復への目安だ。時間はときに自分ではどうしようもないことを解決してくれる。

 

1ヶ月経って、制約された生活が続く中、明らかに感覚的な変化があった。意識が冴えている。視覚や、味覚、聴覚に変化がある。余計な情報が入らない分、五感で感じる事が多く豊かになった。心にも変化があった。風や太陽の熱、光、木、山、動物が安心を与えてくれる。自然が不安を包み込み、大丈夫だよと背中をさすってくれる。母なる地球。マジ卍。

 

瞬間瞬間の感覚や感情に意識をよりフォーカスできるようになっている。不安があるからこそ、天気の良い日の有り難さや、風の気持ち良さ、春に咲き誇る花の美しさをよりいっそう感じるのだと思う。雨の音さえ素晴らしい。

 

何不自由ない生活が続いていたら、頭では理解していても、感じることのできなかった身体的、精神的な感覚を感じることができるようになっている。生きるとは本来、生きるか死ぬかの不安を常に脇に抱えていることだ。死や不安がリアルだからこそ、生を美を感動をよりいっそう強く深く感じれる。

 

いまなら本当の感謝の気持ちがわかる。でも今だけではだめだ。世界が平和になっても今の気持ちを感じ続けなければ、また地球に考えろと言われてしまう。感じたことを風化させないためにも今の気持ちを記録に残した。書けてよかった。

 

いまを生きよう。

 

みんな頑張ろう。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

やる気スイッチ

なんで筋トレするの?って聞かれたら聞き返すんだよね、逆になんで筋トレしないの?って。友人のKくんがいつも言っていました。

 

前からスポーツや体を動かす事が大好きでしたが、筋トレを継続しておこなったことはありませんでした。私がトレーニングを継続的に行うようになったキッカケは、沖縄の与那国島にサトウキビの収穫の仕事に行ったことでした。

 

サトウキビの仕事は毎年1月から4月にかけてのおよそ3ヶ月間の仕事で、私は毎日畑に行き、鎌と斧を使ってサトウキビを収穫する仕事をしていました。製糖工場(サトウキビを黒糖にする工場)が一度稼働すると、基本的に毎日サトウキビを搬入(運び込むこと)しなければならないので、工場の機械などが壊れて工場が稼働できないとき以外休みはありません。ほぼ3ヶ月間ほとんど休みなしで収穫し続けます。

 

いままでにサトウキビの仕事に3シーズン行きましたが、筋トレを始めるきっかけとなったのが最初のシーズンでした。常に腰をかがめ、収穫したサトウキビを300キロ単位でロープでまとめ上げていく仕事を続ける中で、私は腰を痛め、ある日畑で一歩も動けなくなってしまいました。その年は腰にブロック注射をしてもらい、なるべく身体に負担のかからない動きをすることで、なんとかシーズを乗り越えることができましたが、体力のなさを痛感し、サトウキビの仕事が終わった直後から筋トレをするようになりました。

 

私の最初の筋トレの目的は、次のシーズンのサトウキビを怪我なくより多く刈ることでした。まず、基礎体力を上げていくためにランニングを始めました。20分から40分の間でおよそ3キロから5キロほどを週に3.4回走るようになりました。ランニングが終わると、腹筋、背筋、腕立て伏せ、懸垂、逆立ちを自分でメニューを組んで行うようになりました。

 

レーニングには、ダンベルなどを使ったトレーニングと、自分の体の重さを利用した自重トレーニングがあります。生活のほとんどを田舎で過ごしている私は、いつどこでも身体ひとつでできる自重を使ったトレーニングを行うようになりました。

 

最初は自分の身体のどこにどのトレーニングが効いているのか、どうやったら効率の良いトレーニングができるのかわかりませんでしたが、そのことをいつも意識していくうちに自分の身体のことがだんだん分かってくるようになりました。腹筋運動ひとつにしても、どこまでやれば追い込めて、どこまでやると腰に負担がかかってしまうのか、どの動きが身体のどの部分に効いているのか、自分のウィークポイントや逆に強いポイントも分かるようになってきました。

 

レーニングをすることに関して、私は良いことばかりだと思っています。1つだけマイナスをあげるとしたら、時間を取られることです。熱中しすぎるとトレーニング時間も長くなってしまいますし、やらなきゃいけないというマインドになってしまうと、精神的にも辛くなってきてしまいます。私は日々の生活に影響を及ぼさない程度に短時間で効率よくトレーニングをできるように心がけています。

 

レーニングすることの良い所をあげていきます。

・体力がつく

・筋力があがる

・いい身体になる

・スッキリする

・やる気がでる

代謝があがる

・太りにくくなる

・日々の成長を実感できる

 

上げればきりがないですが、私がトレーニングをする上で特にいいなと思うことは、やる気がでることです。

 

少し疲れたな、眠いな、精神的に辛いな、という日でもトレーニングすると不思議とやる気がでます。トレーニング後には満足感や達成感や幸福感を味わえます。筋トレやランニングをすることで、脳からセロトニンドーパミンなどのホルモンが分泌されます。それらのホルモンが自信をみなぎらせたり、モチベーションを向上させたり、ポジティブな思考を与えてくれるのです。

 

筋トレをすると、精神的な良いサイクルが生まれます。筋トレをしてよい身体になりつつ精神的にもよいモチベーションを保てるのです。私がトレーニングが好きになった理由は肉体的な変化よりも精神的な変化の方が大きな理由かもしれません。

 

レーニングの最初の頃はなかなか身体も変わってきてくれませんが、経験上、2ヶ月続けていると徐々に変化は現れてきます。例えばお腹が割れてくるのが目でみえたり、腕が太くなったり、身体が以前よりも大きくなったりします。一番大切で、大変なことは継続していくことです。やめることは本当に簡単ですが、続けていくのはなかなか大変です。自分が続けていける強度とモチベーションを保てればなんとかなるはずで、それがまた精神力の向上にもつながります。

 

まずは、1日10回の腹筋と5回の腕立て、1回の懸垂で十分です。やり終えたあとには、ほどよい達成感とやる気、幸福感を味わえるはずです。

 

興味があったら是非ためしてみて!

 

仕事も日々の生活もいっそうはかどるはず!!

 

おわり

 

 

服っていいよね

昔から洋服がけっこう好きです。最近いつ頃から服のこと好きになったかなぁと思い返してみたので、その事を書きたいと思います。

 

昔の記憶をたどっていくと、最初に私に影響を与えたのは東京に住む、いとこのお兄ちゃんとその友達たちだったと思います。彼らは下北沢生まれ、下北沢育ちの生粋の都会っ子で私が小学生や中学生のころ、彼らは高校生や大学生で、よく服や靴やゲーム、サッカーやバスケの話をしているのを子供ながらによく聞いていました。今でも感じますが、東京生まれ東京育ちの人ってやっぱり何か違います。身にまとってる空気がシティーなんですよね。かっこいいんですよ。大人になっても。

 

私が小学生を卒業して中学生1年生になる春、東京に遊びに行く機会があり、いとこのお兄ちゃんと通学用のリュックを買いに行きました。私の通った中学校には指定のカバンなどは特になく何でも良かったので、好きな物を選ぶ事ができました。

 

下北沢のSTEPSというお店に行ったのを覚えています。当時小学6年生の私にはとても手の届かない価格の洋服や靴、カバンが売っているセレクトショップで、お兄ちゃんたちは僕に当時まだ流行る前のグレゴリーのリュックを勧めてくれました。スペクトラという高強度の素材を使った黒ベースの渋いリュックでした。入学祝いだからといって、いとこのお兄ちゃんが私にそのリュックを買ってくれたのですが、私はその値段に驚愕しました。2万円もしたんです。まじ高杉晋作。小学生の私にとっては1万円でさえめちゃめちゃ大金なのに、いとこのお兄ちゃんは小学生の私に2万円のリュックを買ってくれたのです。私は中学の3年間をそのリュックとともに過ごしたのですが、中学生のハードワークにも負けず、18年近く経った今でも壊れることなく現役で使えています。この時私は多少高くてもいい買い物をするという事と〝良い物〟というのは、こういう物なんだということを学びました。

 

そういえば父からの影響も大きいかったと思います。父はいつもパトリックのスニーカーを履いていました。父は、小学3、4年生の頃から私にもいつもパトリックの靴を履かせてくれました。1つが履き潰れたり、サイズが小さくなってくると、新しいものを靴屋に行っては一緒に選び買ってくれました。そのパトリックの靴も安くて1万2000円くらいしていました。小学生にとっては贅沢すぎる靴です。私はいつもパトリックを履いて小学校に通っていました。でも、そのデザインはどのスニーカーよりも抜群にかっこよくて、最近は履く事がなくなってしまったけれど、小学生のころに履いていた何足ものパトリックのデザインや素材、色は今でもすぐ思い出す事ができます。なにがダサくてなにがカッコいいか、何が良い物で何が悪いものなのかの基準や定義がこの時期から自分の中にできてきたような気がします。靴を大好きになったのは間違いなく父の影響です。

 

私は稼いだ全てのお金を服につぎ込むほど、大量に服を買ったりすることはありませんが、たまに大きなお金を払ってでもゲットする靴や服があります。基本的に服は大好きですが買うことは稀で、都会に行った時には服屋を何件も見てまわるのが大好きです。服って本当にいいんですよね。その人の生き様やカルチャーがでますし、カルチャーがでるからこそ、スケーターの着る服はかっこいいし、パンクバンドの着るパンクな服はかっこいいですよね。その人がどんな事が好きでどんな信条を持って生きているかも服にも現れてくると思っています。

 

私は古着が大好きなので、基本古着屋をまわるのですが、服って本当に一期一会で、うぁ!最高っ!て服ってなかなか出会えないですよね。Tシャツ1枚にしたって首元の微妙なサイズ感とその加減とか袖の長さとか丈とか、もちろんデザインであったり色であったり、なかなか出会えないからこそ、出会った時は多少高くても必ず買うようにしています。見た目はすごくいいのに自分には全然似合わない服もあるし、着てみたら意外といいじゃんってのもありますし。なんですかね。人も服もとりあえず出歩かないと出会えないってことですよね。

 

とりあえず散歩いきますか。

 

おわり

お遍路という文化、求道と祈りの道②

お遍路をしていて驚いたのは、海外から歩きに来ている人の数です。私が出会ったのは、ドイツから来ている夫婦や、アメリカ人の青年、南アフリカから歩きに来ている女の子など、多くの海外の方に出会いました。過去にお遍路を経験した海外のある人が英語でお遍路のガイドブックを作っているようで、海外から訪れた方はそのガイドブックを持って旅をしていました。

 

歩いていく中で様々な人に出会いました。私と同じくらいの年齢のお兄ちゃんもいれば、会社を定年退職したあと歩いているおじさん、もうこれでお遍路3回目だという人もいました。なかにはエンドレスお遍路をしている人にも何人か出会いました。四国を1周して終わるのではなく、そのあとも何周も何周もと終わりなく歩き続けているのです。お寺の前でお経を唱えることによってお布施を得てエンドレスお遍路を続ける人や、この人お金どうしてるんだろっ!?というような人もいました。

 

また、四国の地にはお接待という文化があります。歩いていると、頑張っているねと言ってお菓子をくれるおばあちゃんや、コンビニの前で休んでいるとおにぎりとコーヒーを買ってきてくれるお兄ちゃん、私の分までお参りしてきてねといって、お金をくれるおじさん、本当に様々な人と出会いたくさんの優しさに触れ、四国の文化を体感しました。

 

お遍路について全てのことを書こうとおもうと永遠と続いてしまうので、最後に祈るということと、高野山について書きたいと思います。

 

まず、祈るということ。

 

お遍路をする理由は本当に人それぞれであると思いますし、理由はなんだっていいと思います。自分に挑戦したい、大切な人たちのために祈りたい、絶望的な今の状況から救われたい、平和を祈りたい、ご先祖様に感謝を伝えたい、歩くのがとにかく好き。などなど、理由はそれぞれがそれぞれあると思います。私の場合は〝興味〟でした。そこにお遍路があったからです。笑

 

どんな理由で始めたとしても、みんなが共通して必ず行うことがあります。それは、手を合わせて〝祈る〟ということです。2ヶ月弱、毎日必ず祈るのです。歩いているときは考える時間が山のようにあるので、祈るとはなんだろうかといろんなことを考えました。その中で私は、祈るとは自分以外の誰かまたは何かに対して想いを馳せることではないのかなと思いました。

 

例えば、家族の健康を思ったり、友達や大切な人の幸せを願うこと、世界の平和を願うこと、ご先祖様に感謝をすること、その全てが自分以外の誰かのことを想うことです。

 

毎日生きていく中で、1分でもいいから目を閉じて両手を合わせ、幸せを祈ること、誰かに想いを馳せることってなかなかないことですよね。お遍路はその機会を毎日与えてくれます。意味なんてそんなにわからないですし、理由だって人それぞれだけれど、みんな何かしらを祈っている。すごく尊くて、すごく素敵な光景です。歩く中で自分を見つめて、手を合わせて祈る。ただそれだけだけど、それで十分なのだと思いました。

 

最後に高野山のことを書きます。

 

高野山!?お遍路と関係ないじゃんって思うとおもいます。高野山和歌山県の山の上にある空海が創った宗教都市です。高野山奥の院という場所では、空海はいまだに修行をしていることになっていて、朝と晩に空海への食事を運ぶことは、お弟子さん達のとても重要な仕事の1つです。四国八十八ヶ所巡礼を終えた人は、最後に高野山を訪れ、旅を無事に終えたことへの報告と感謝を空海に伝えにいくのです。

 

空海のいる奥の院へとつづく道の左右には、2万とも3万とも言われるお墓や、苔の生い茂った巨木が立ち並び、とても厳かな空気で満ちています。織田信長豊臣秀吉、徳川家、歴代の戦国武将などの墓もあり、皆死んだ後も空海に寄り添っていたかったのだなという想いが伝わってくる道です。

 

私も実際に高野山を訪れ、空海に旅の無事と感謝を伝えました。霧雨のような細かい雨が降る日でした。奥の院へとつづく道の木々や苔からしたたる水滴と、浅く霧がかったその美しい風景は、鮮明に記憶に残っています。空海に感謝を伝えたとき、いままでは教科書の中に登場する歴史上の人物の1人であった空海をとても身近に感じました。

 

誰とでもすぐに連絡がとれるいまだけど、目をつむって、静かに誰かに想いを馳せる時間。

 

いいですよね。

 

おわり

お遍路という文化、求道と祈りの道①

3年前の春、私は四国の徳島に降り立っていました。ハイパーライトマウテンギア社製のキューべンファイバーを用いた超ウルトラライトなバックパック(笑)に軽量テント、寝袋、スリーピングマット、コンロ、水、少量の着替えとカメラを詰め込み、ハーフパンツにアルトラ製のトレランシューズという出で立ちでした。目的は〝お遍路〟と呼ばれる、四国に点在する八十八ケ所のお寺を歩いて周ることでした。

 

古代から、都から遠くはなれた四国の地は辺地(へじ)と呼ばれ、平安時代頃には、修験者たちの修行の道でした。讃岐国香川県)に生まれた、若き日の弘法大師空海もその中の一人でした。空海はたびたび四国の地で修行をするなかで、八十八ケ所の寺院を選び、のちに四国八十八ケ所霊場を開創しました。その八十八ケ所の霊場(寺)を巡礼することをお遍路と呼ぶのです。

 

私は以前からお遍路という言葉をなんとなく知っていました。白衣に菅笠(すががさ)、金剛杖を持ち四国の荒地を毎日黙々と歩く人々の姿を頭のなかに思い描いていました。季節の仕事を始めて、お遍路を経験している人に何人か出会ったり、ミカンの収穫の仕事で毎年働いていた愛媛は、お遍路の本場であったし、一緒に働く農家のお父さんお母さんや、おじちゃんたちからよくお遍路の話を聞かされていました。そんなこともあって、昔から知っていたお遍路を身近に感じたわたしは、日本に今も残っているお遍路という文化を一度は体験してみたいと思い、用具を揃え、四国に降り立ったのでした。

 

四国に点在する八十八ケ所のお寺にはそれぞれ番号がついています。どこをどのように、どんな方法で周るかは人それぞれであり特に決まりはありません。歩いて周っても、自転車で周っても、車で周ってもいいのです。お遍路を周る方法として1番ポピュラーなのは、一番札所から順に八十八番札所までまわっていく、順打ちという方法です。逆に八十八番札所から一番札所に遡ってお参りしていく方法もあり、逆打ちと呼ばれます。道中にはお遍路用のさまざまな道案内があるのですが、一般的に、道には順打ちによる案内がしてあるので、逆打ちは道に迷うなどといった苦労が多く、より御利益が多いなどとも言われています。わたしは無難に順打ちを選びました。

 

一番札所最寄りの坂東駅に降り立った私は、そこから歩いて10分ほどの一番札所霊山寺へと向かいました。霊山寺へと近づくにつれ私が思い描いていた、白衣や笠を被った人々がちらほら見えるようになり、いよいよ始まるんだなという期待やドキドキと全て歩き通せるだろうかという不安を胸にお遍路はスタートしました。

 

お遍路ではお寺に着くと納札(おさめふだ)と呼ばれる紙に自分の名前を書き、箱に納め、納経帳に各お寺の御朱印をもらいます。実際、わたしは十六番札所まで、御朱印をもらっていましたが、御朱印をもらえる時間に制限(朝7時から夕方5時までしかもらえない)があることとで自分のペースでお寺を訪れることができないことと、1つの御朱印に300円かかること(88カ所周ると27000円近くかかる)がわずらわしくなり、スタンプラリー(笑)やってるんじゃないんだよ!と思い途中でやめてしまいました。

 

各お寺にはご本尊と呼ばれる様々な神様がまつられていて、各神様ごとに唱える言葉も違います。例えば祀られているが不動明王だとすると、その真言

 

なうまく   さんまんだ   ばざらだん   せんだ   まかろしゃだ   そわたや   うんたらた   かんまん

 

です。この真言、実際に唱えられるととってもかっこいいんです。たくさんある真言のなかで私は1番すきです。

 

真言の他にも細かく唱えることが決まっているのですが、私は全ては覚えることができなかったので、皆が普遍的に唱える般若心経を唱えるようにしていました。あとは手を合わせ、無事に歩いて来れたことへの感謝や、家族や友達の健康と平和を、各お寺で祈っていました。

 

旅は始まり、1日に約20km、多い日で30kmほど歩きました。四国の道のりを距離にすると徳島が約190km、高知が最も長く約400km、愛媛が約370km、最後の香川が約140km、合計すると約1100kmの道のりになります。私はこの道を約50日かけて周りました。日差しが強く暑い日や、土砂降りでびしょびしょの日もありましたが、高知の海岸線や、香川の田んぼ道を歩いている時の気持ち良さ、誰もいないめちゃめちゃ綺麗なビーチで昼寝したり、朝の新鮮な空気の中をやる気に満ち溢れて歩いたり、夕暮れの空の色が心に沁みたりしたことは振り返ってみるととても充実していて、ただ歩いているだけで心はいつも満たされていました。

 

最初にイメージしていたお遍路の道のりは、昔ながらの舗装されていない荒々しい道や山々が続くのかと思っていましたが、実際に歩いてみると、舗装されたコンクリート道や町中を歩くことが多かったです。山の山頂に建てられているお寺を訪れるときにはいわゆる山道を歩くのでした。

 

私はバックパックの中にテントと寝袋を持っていたので、全ての行程を野宿で過ごしました。四国の地は、お遍路をしている人々にとても寛容で、迷惑にならないような場所であれば、バス停の近くや公園、あずま屋などにテントを張っても何か言われることはほとんどありません。もし、声をかけられてもお遍路をしていることを伝えれば快く受け入れてくれます。日が暮れる時間になってくると、私はテントを張れる場所を探し、日没とともに眠り、日の出とともに起き、歩くという日々を過ごしていました。

 

つづく

 

H・D・ソローと夢の道アパラチアン・トレイル

アパラチアン・トレイル(Appalachian Trail, 3498km)とはアメリカ東部をアパラチア山脈に沿って南北にのびる長距離自然歩道のことです。

 

私の夢の1つに、このアパラチアン・トレイルをバックパックを背負ってスルーハイク(一度で全ての道を歩ききること)する、というものがあります。一度にスルーハイクするには約6ヶ月かかると言われています。

 

アパラチアン・トレイルの話をする前にまず〝ヒッピー〟の話をします。私は昔から〝ヒッピー〟という言葉に興味を持っていました。私達の生きるこの時代にはヒッピーはもう存在しませんし、ヒッピーがどのような人達でどんな時代背景から登場していったのかシンプルに興味があったのです。

 

ヒッピー(HIPPY)の語源はもともとヒップスター(HIPSTAR)という言葉に由来し、ビートニクの人達(1955年〜1964年にかけてアメリカ文学会で異彩を放ったグループの総称、ビート・ジェネレーションとも呼ばれる)を意味していました。『On the Road』を描いた J・ケルアックや、『吠える』のアレン・ギンズバーグ、W・バロウズなどが代表的なビートニクス達で、彼らの描いた文学はビート文学と呼ばれます。最近でも〝イケてる、イカしてる〟ことを〝ヒップ〟と言うのがアメリカで流行っていたそうです。また、イケてる人、ロールモデルをヒップスターと呼ぶようです。

 

ヒッピーとは、既成社会の伝統や制度、保守的な男性優位社会を否定するカウンターカルチャー(価値観や行動規範が主流社会のものとは大きく異なり、しばしば主流の文化的慣習に反する文化のこと)の一翼を担った人々とそのムーブメントのことです。彼らは、共同体生活への回帰や自然回帰を提案し、反戦運動カウンターカルチャーとしてのロック、野外フェス、性解放、フリーセックス、大麻LSD、男女平等、差別の廃止などを主張しました。また、インドなど東洋の宗教や哲学に魅力を感じ、日本の〝〟にも影響を受けています。

 

そもそもヒッピーたちは、1950’sのビートニクスの思想を色濃く継承しているのですが、さらに遡って、そのビートニクス達に大きな影響を与えた人物に鈴木大拙(すずきだいせつ,1870-1966)という日本人がいます。

 

鈴木大拙は日本の仏教学者で、禅についての本(『What is ZEN』が有名)を英語で著し、日本の禅文化を海外に広く知らしめました。1952年から1957年には米、コロンビア大学客員教授として滞在し、仏教、特に禅の思想を広げました。その時に実際にビート・ジェネレーションである、J・ケルアックやW・バロウズとも関わりがあったそうです。

 

ビート・ジェネレーションの作家たちはドラッグを使用することによって、精神の内面世界を探求していったのですが、そこには限界があることも知り、同じように精神の内面を追求する哲学でもある〝禅〟に惹かれていきました。

 

ヒッピーのことを知るなかで、ヒッピーたちが登場してくる1つの要因に禅、そして日本人が関わっている事に私はとても驚きましたし、同じ日本人として、とても嬉しくなりました。

 

さらに遡っていくと、H・D・ソロー(1817〜1862 ) というアメリカの作家に出会いました。ビート文学の思想的なルーツはH・D・ソローの『ウォールデン、森の生活』という本にあると言われています。

 

ソローが誕生したのは1817年、アメリカのコンコードで、今から約200年前です。ソローはウォールデンの湖のほとり、森の中に自分で丸太小屋を建て、2年間自給自足の生活を送りました。そのときの生活や思想をまとめたものが『森の生活』という本です。約170年前に書かれたとは思えないほど、世の中を俯瞰して捉えていて、その批判の多くは現在の私たちにも刺さるものがあります。ソローがこの本の中で書いている、物質主義への批判や労働に対する意識、生きることへの考えが多くのビート・ジェネレーションを刺激したのだと思います。『森の生活』は、私が人生でもっとも影響を受けた本です。

 

ソローは生涯多くの時間をアメリカ東部のメインの森を探索して過ごしました。そのソローが愛したメインの森から始まる(または終わる)道が全長3498kmの長距離自然遊歩道、アパラチアン・トレイルなのです。アパラチアン・トレイル 通称A.T.ジョージア州からメイン州にかけて14州にまたがった長距離遊歩道です。

 

アメリカにはメキシコ国境からカナダの国境までアメリカ西海岸を南北に縦走する、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT, 4260km)、アメリカ中部を南北に縦走する、コンチネンタル・ディヴァイド・トレイル(CDT, 4960km)、そしてアパラチアン・トレイル(AT, 3498km)という3つの長距離自然遊歩道があり、これらを総称してアメリカ三大トレイルと呼ばれています。

 

私は、ヒッピーへの興味が、ビートニクや禅、ソロー、そしてアパラチアン・トレイルにつながったことをとても面白いと思いました。

 

また、日本人のロングトレイルの第一人者、加藤則芳さんの『メインの森をめざして』という、加藤さん自らがアパラチアン・トレイルを歩いたノンフィクション作品を読んだことによって、ますます興味をもちました。

 

アパラチアン・トレイルを歩くことは私の夢ですが、そう遠くないうちにチャレンジしたいと思っています。そこで何を感じ、考え、体験し、どんな出会いがあるのかを考えている時間がとても幸せです。

 

おわり

 

 

修験道と祈り

季節労働(農業や漁業などの最盛期に農家さんなどに雇われて2〜3ヶ月働くような仕事)をしていると、たくさんの人との出会いがあります。農家さんに2〜3人単位で雇われる仕事から、20、30人で1つの寮に住みながら働く仕事など様々な仕事があるので、地元の人や全国から集まる様々な人と出会います。そんな出会いの中で特に印象的だったWくん、そして修験道の話をしたいと思います。

 

Wくんとの出会いはミカンの収穫の仕事で訪れた愛媛でのことでした。Wくんはいつも頭を綺麗に剃り、紺色の作務衣を着て、首から数珠をかけていました。彼はよく仕事が終わると浜辺に行き、夕日に向かってホラガイを吹いていました。その見た目や、年齢も私の4歳ほど上で歳も近いことから、最初からWくんにとても興味を持ちました。しかし、働いている農家さんや住んでいる家も違ったため、なかなか仲良くなるチャンスがありませんでした。

 

ミカンの仕事も後半になってきたある日、たまたま友達に誘われて、Wくんの住んでいる家に遊びに行くことになりました。家について部屋にあがったのですがそこにWくんはまだいませんでした。私たちが家についた時、彼は別の部屋で般若心経を唱えていました。Wくんには仕事が終わってから毎日必ず行うルーティーンがあり、それが終わると私たちと乾杯してくれました。

 

わたしはWくんに毎日作務衣を着ている理由や般若心経を唱える理由などさまざまなことを聞きました。そこでわたしが始めて出会った言葉が修験道(しゅけんどう)でした。

 

Wくんは普段は奈良県大峰山の麓にこもり修行をしていました。ミカンの時期だけ町に降りてきてお金を貯めて、それが終わるとまた山に戻るのだと教えてくれました。ミカンの仕事は3回目でこれが最後のミカンの仕事だということも教えてくれました。いままでは町に降りてくることもあったけれど、これからは本格的に山に篭るのでもう山から降りないという事を言っていました。

 

修験道とは、神仏習合の信仰であり山をご神体と考える山岳信仰です。神仏習合とは簡単に言うと同じ場所に神さまと仏さまをまつっているということです。今の日本では神社と寺ははっきりと別れていて、神様と仏様が同じ場所にまつられることはないので少し不思議な感じがしますが、もともと神社と寺は同じ場所に存在していました。それが江戸時代の後期や、明治になってから神仏分離令神仏習合の慣習を禁止し神道と仏教、神と仏、神社と寺をはっきり区別させる法令)が出され、神社と寺は区別されるようになりました。

 

Wくんのいる奈良の大峰山は、修験道の総本山と言われている場所です。日本には昔から霊山と呼ばれる山々があり、修験道の行者(修行をする人)は、山の中に入り、水行や山中を駆ける(千日回峰行が有名)などの修行をします。山自体を御神体して拝み、その御神体の中(山の中)に入って修行する事で、特別な力を得て、自他の救済を目指そうとするのです。石川県の白山や、富士山も代表的な日本の霊山です。

 

修験道の始まりは、飛鳥時代役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれる人物が開いたとされ、平安時代のころから盛んに信仰されるようになったようです。

 

明治時代に神仏分離令が出されたのは、王政復古や祭政一致(祭祀と政治が一体化していること、祭は宗教、政は政治を意味します)を実現するためです。神仏習合を禁止することで、宗教の力を弱め、政治と一体化させることで、国をより動かしやすくしたのです。また、明治5年には修験禁止令が出され、修験道は禁止されました。それほどまでに修験道が力を持ち、また山伏と呼ばれる行者が日本にはたくさんいたのです。しかし、禁止された後も山で宗教的な修行する者は絶えず、現在も修験道は残っています。

 

W君が大峰山に篭ったあと、何回か私も大峰山を訪れました。そこには本物の祈りがありました。1000日間続けて川に入り、般若心経を唱える水行や、厳しい山中を駆ける修行、洞窟の中で行う修行などを通してW君は毎日、世界の平和を祈っていました。

 

最後にWくんの言葉をのせようと思います。

 

大峰蛇之倉七尾山は、役行者弘法大師空海日蓮聖人など、歴代の聖者が最後の篭り行をされた場所です。

遥か古より魔境蛇之倉山と恐れられ、入山した者は二度と帰らず諸人の入山は禁止されていました。しかし、約70年前、第二次世界大戦後、地獄のような厳しい状況下に地球霊主の御霊示により始めて諸人の入山が許されました。

ここには真の祈りがあります。世のため、家族のため、仲間のため、御先祖様のため、水子様のため、そしてなによりも自分のために祈りたいと思ったら何も考えず魂のままにこの御山に御参りください。

 

世界が平和でありますように。万物万霊が幸せでありますように。

 

おわり