YuOkumura’s blog

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お遍路という文化、求道と祈りの道②

お遍路をしていて驚いたのは、海外から歩きに来ている人の数です。私が出会ったのは、ドイツから来ている夫婦や、アメリカ人の青年、南アフリカから歩きに来ている女の子など、多くの海外の方に出会いました。過去にお遍路を経験した海外のある人が英語でお遍路のガイドブックを作っているようで、海外から訪れた方はそのガイドブックを持って旅をしていました。

 

歩いていく中で様々な人に出会いました。私と同じくらいの年齢のお兄ちゃんもいれば、会社を定年退職したあと歩いているおじさん、もうこれでお遍路3回目だという人もいました。なかにはエンドレスお遍路をしている人にも何人か出会いました。四国を1周して終わるのではなく、そのあとも何周も何周もと終わりなく歩き続けているのです。お寺の前でお経を唱えることによってお布施を得てエンドレスお遍路を続ける人や、この人お金どうしてるんだろっ!?というような人もいました。

 

また、四国の地にはお接待という文化があります。歩いていると、頑張っているねと言ってお菓子をくれるおばあちゃんや、コンビニの前で休んでいるとおにぎりとコーヒーを買ってきてくれるお兄ちゃん、私の分までお参りしてきてねといって、お金をくれるおじさん、本当に様々な人と出会いたくさんの優しさに触れ、四国の文化を体感しました。

 

お遍路について全てのことを書こうとおもうと永遠と続いてしまうので、最後に祈るということと、高野山について書きたいと思います。

 

まず、祈るということ。

 

お遍路をする理由は本当に人それぞれであると思いますし、理由はなんだっていいと思います。自分に挑戦したい、大切な人たちのために祈りたい、絶望的な今の状況から救われたい、平和を祈りたい、ご先祖様に感謝を伝えたい、歩くのがとにかく好き。などなど、理由はそれぞれがそれぞれあると思います。私の場合は〝興味〟でした。そこにお遍路があったからです。笑

 

どんな理由で始めたとしても、みんなが共通して必ず行うことがあります。それは、手を合わせて〝祈る〟ということです。2ヶ月弱、毎日必ず祈るのです。歩いているときは考える時間が山のようにあるので、祈るとはなんだろうかといろんなことを考えました。その中で私は、祈るとは自分以外の誰かまたは何かに対して想いを馳せることではないのかなと思いました。

 

例えば、家族の健康を思ったり、友達や大切な人の幸せを願うこと、世界の平和を願うこと、ご先祖様に感謝をすること、その全てが自分以外の誰かのことを想うことです。

 

毎日生きていく中で、1分でもいいから目を閉じて両手を合わせ、幸せを祈ること、誰かに想いを馳せることってなかなかないことですよね。お遍路はその機会を毎日与えてくれます。意味なんてそんなにわからないですし、理由だって人それぞれだけれど、みんな何かしらを祈っている。すごく尊くて、すごく素敵な光景です。歩く中で自分を見つめて、手を合わせて祈る。ただそれだけだけど、それで十分なのだと思いました。

 

最後に高野山のことを書きます。

 

高野山!?お遍路と関係ないじゃんって思うとおもいます。高野山和歌山県の山の上にある空海が創った宗教都市です。高野山奥の院という場所では、空海はいまだに修行をしていることになっていて、朝と晩に空海への食事を運ぶことは、お弟子さん達のとても重要な仕事の1つです。四国八十八ヶ所巡礼を終えた人は、最後に高野山を訪れ、旅を無事に終えたことへの報告と感謝を空海に伝えにいくのです。

 

空海のいる奥の院へとつづく道の左右には、2万とも3万とも言われるお墓や、苔の生い茂った巨木が立ち並び、とても厳かな空気で満ちています。織田信長豊臣秀吉、徳川家、歴代の戦国武将などの墓もあり、皆死んだ後も空海に寄り添っていたかったのだなという想いが伝わってくる道です。

 

私も実際に高野山を訪れ、空海に旅の無事と感謝を伝えました。霧雨のような細かい雨が降る日でした。奥の院へとつづく道の木々や苔からしたたる水滴と、浅く霧がかったその美しい風景は、鮮明に記憶に残っています。空海に感謝を伝えたとき、いままでは教科書の中に登場する歴史上の人物の1人であった空海をとても身近に感じました。

 

誰とでもすぐに連絡がとれるいまだけど、目をつむって、静かに誰かに想いを馳せる時間。

 

いいですよね。

 

おわり