YuOkumura’s blog

日々のこと。暮らしのこと。好きなこと。仕事のこと。写真のこと。

チクセントミハイとフロー

フロー(Flow)って言葉ありますよね。ゾーンとか、テニスの王子様でいう無我の境地などと呼ばれる言葉です。

 

以前、ランニングについて書いたのですが、私がランニングを好きな理由の1つに〝フローのような状態になるから〟というものがあります。いわゆる、ランナーズハイです。  

 

私の場合ですが、後頭部の毛穴がぶあっと開くような感覚と、周りの景色がやけにスローに鮮明に見えるような感覚があります。大抵、いったん疲れのピークが来てそこを我慢して走っていると、突然その状態に入ることが多いです。でもほんとにたまにしかその状態にはいらない!つらああぁ〜ってだけのこともしょっちゅうです。

 

そのほかには、単純作業ではあるけれど、突き詰めていくとどんどん速くなるような作業の中で私はフローを感じることがあります。

 

例えば永遠にサトウキビをナタで何トンも切り倒していくような仕事や、何10トンもの鮭の腹をさばいてイクラを出していくような仕事、ホタテの貝に開けられた小さなあなにひたすらピンを通してそれを何千個もやるような仕事などです。簡単に言ってしまえば、どの作業も決して難しくない単純作業を繰り返していくだけのものです。しかし、そういう仕事のときにこそフローに入る感覚を感じる機会が多いです。

 

単純な作業だからこそ、1分、1秒、コンマ何秒の動きに集中し、より速く、正確で、効率のよい動きを求めていきます。

 

1つの作業に0.5秒の違いがあったとしましょう。それを、1日で何千回、多いときは何万回と繰り返す作業では、1日でも、仕事の効率や、もらえるお金の量は全然違いますし、それを何ヶ月と続ける季節の仕事では、やり遂げたときの差は途方もないことになります。なので、効率を極限まで求めていく作業はフローの感覚をとても感じやすいのです。

 

幸福や創造性、楽しみの研究を行い、フローの概念を提唱したとされる、ミハイ・チクセントミハイというアメリカの心理学者がいます。ミハイは『フロー体験:喜びの現象学』(世界思想社、1996)という本のなかで、フロー体験の構成要素をいくつか挙げています。

・集中

・自己認識感覚の低下

・目標の設定

・活動への価値を見出すこと(強制させられている感覚をもたず、より洗練しようと努めることなど)

などです。

 

例えば、強制させられ、困難でもなく、魅力が少ないような仕事でも、他の人々が認識しなかったところに挑戦の機会を認識し、その能力を高め、当面する活動に注意を集中して、対象との相互作用に没入することで、フローが生じてくるようです。

 

この本には喜びや、幸せ、フローについてなど多くのことが書かれているのですが、結局は、日々の仕事や生活の一つ一つを新しい挑戦として捉え、その挑戦を学習の機会や、能力を高める機会として捉えることで、フローにもつながり、生活がより意味を持つようになるということを伝えたいのではないかと思いました。めっちゃ簡単に言ったら〝集中しろ!そして、楽しめ!!〟ってことですね。

 

私はこの本や、仕事、ランニングを通して、とにかくなんでも没頭して集中すること、そしてそれが楽しさや、自分の変化、成長につながることを学びました。どんなことでも必ずそこに楽しさや喜びを見出せるはずなのです。

 

ジョブズが仕事の前に鏡に向かって自身に問いかけていたことをよく思い出します。

 

「もし今日が人生最後の日だったら、僕は今からすることを“したい”と思うだろうか? その質問に対して、あまりにもノーが毎日続くようなら、それは何かを変えないといけない証拠だろう」

 

この言葉も要するに楽しめてるか?ってことですよね。

 

おわり

 

 

 

速く走れないシューズ、アルトラ

季節労働を始めたことと、『Born to Run』という本に感化された私は、積極的にランニングをするようになりました。

 

『Born to Run』という本の中に、〝ベアフット・ランニング(裸足で走る)〟という言葉がでてきます。

 

70’sの後半にナイキが〝エア〟を搭載したランニングシューズを開発し販売したことによって、いままでの薄底のランニングシューズから、エアなどが搭載されたより厚底でクッション性のあるシューズを好んで履く人が増えました。

 

しかし、ある研究などではクッション性のあるシューズの方が実は足に悪影響である場合もあることがわかりました。素足で走るには痛く、負荷がかかりすぎる走り方でも、クッション性のあるシューズ履いてでは走れてしまうのです。例えば、裸足で道を走るとき私たちは決して、踵から着地しません。そんなことをしたら痛すぎるし、すぐにかかとが壊れてしまいます。たぶん私たちは、足裏の半分からさき、つま先により近い方を使って走ります。そうすれば痛くないですし、自分の足の限界より速く走ることができないので、自然に足を衝撃から守ることになります。

 

そのようなクッション性のあるシューズに対抗して、よりナチュラルで、本来の足の使い方にそった、裸足やクッション性のほとんどない、より素足に近い感覚のシューズを履きランニングすることをベアフット・ランニングといいます。

 

私はこのベアフット・ランニングの文章を本の中で読み、それに関連する記事を雑誌やインターネットのサイトをみていくなかで、アメリカのALTRA(アルトラ)というブランドのシューズを見つけました。

 

アルトラのコンセプトはシューズのヒール(かかと)の部分を削り、つま先との高さを同じにする(アルトラ社の言い方でゼロドロップ)にすることでヒールストライク(かかと部分から着地する走り方)を限りなく無くすということでした。それにより、より自然な走り方にたどり着き、怪我を最小限にとどめることができるのです。

 

アメリカのメーカーのシューズなので、デザインは正直言って欧米人好みなのかなあと思います。ちょっとダサいです笑。でも、ヒールとトップとの高低差を無くすこと、また、余計なクッションなどの機能を避けることによって素足に近い感覚を与えてくれます。普段私たちが履いている靴は必ずと言っていいほど多少の傾斜がかかとからつま先にかけてあるので、初めてアルトラを履くと、重心がかかとよりになり、その不安定さから違和感を感じます。しかし一度走り始めると、このゼロドロップという機能がなんとも心地いいのです。

 

ただ、タイトルにも書いたようにアルトラは一般のレーシングシューズと比べると決して〝速く〟走ることのできるシューズではないと思います。それは、つま先の形状にあります。より、自然に近い走り方をするために、つま先の形も足の指に沿った広がりを持っています。それが足の指を圧迫せず、より指の指を自由に動かすことができるので、開放感を与えてくれます。しかし、速く走るためにはつま先はある程度一箇所に集まり、尖っているような形状が好ましいのです。それは、シューズの先端が一箇所に集まっていた方が地面を蹴ることによって地面から受ける力がより集約され、前に進む推進力がより大きくなるからです。つま先が広がっていると力が分散してしまうため、より大きな力を受けることができず速く走ることが難しくなるのです。

 

まちなかを見ていると本当に沢山の人がランニングをしています。大会に向けて走っている人、健康のために走っている人、ストレス発散のために走っている人、1ヶ月後に会う恋人を驚かせるために走っている人、なにかアイデアを浮かべるために走っている人もいるかもしれません。私の場合は身体を鍛えるためや、気持ちよさを求めて走っています。

 

速くは走れないし、デザインもカッコよくないけれど、限りなく気持ちよく走れるシューズ、アルトラ。

 

気持ちよく走りたいそこのあなた!

 

一度試してみてはいかがですか。

 

http://altrazerodrop.jp/

 

おわり

 

バンクーバーから考える未来のこと

やっぱり外国っていいですね!一歩、空港に降り立った瞬間からいつもわくわくしてしまいます。日本とは違う匂いや、空気、色、音、があり、そしてもちろん違う人々がいますよね。

 

空港から降り立ち、とりあえず荷物を取られるのだけは気をつけようと心を引き締め、空港からダウンタウン(街の中心)へと伸びるスカイトレイン(ユリカモメっぽい、自動操縦)へ乗り込みました。約25分の距離で8カナダドルです。私たちがいた時は日本円が少し強くて1カナダドル約90円だったので、だいたい720円くらいでした。それでも少し高いですよね。

 

終点のウォーターフロント駅に着き、電車から出て街に降り立った印象は、いきなりですが、Weed(大麻)の匂いめっちゃする!!!でした。

 

カナダは大麻を医療用としてだけではなく、嗜好品として個人が買ったり、吸ったり、一定の量までなら育てる事を許されているので、街中や公園などではよくWeedの匂いがします。

 

カンナビスという看板が出ているショップに行けば、だいたいカウンターにお兄さんやお姉さんがいて、自分の気分を伝えるとそれに見合ったWeedをおすすめしてくれます。真っ白に統一された、びっくりするくらいきれいなショップや、こじんまりと店前に看板だけを掲げたお店など様々な種類のお店があります。店員さんと相談して、数あるWeedの中から自分にあったものをチョイスしていく感覚は、コーヒー屋さんで自分の好きな味をその産地や、豆のブレンド、淹れ方、飲み方から選んでいくのとさほど変わらない感覚だとおもいます。お店には地元の若い人や私たちの親世代(50,60代)の人、旅人など人種や年齢を問わず、多くの人が訪れていました。日本では考えられない感覚ですよね。ただ、購入するにはパスポートや国際免許証などのしっかりした身分証明書の提示が必要で、それをエントランスのガードマンに見せなければ店自体にも入れないことがあります。

 

みんな晴れた日の公園やビーチ、仕事の後、映画を見るときや音楽を聴きながら、またはクラブの中、寝つきが悪いときや身体に痛い部分があるとき(種類によっては眠気を誘ったり、痛みを和らげ、心穏やかにリラックスすることができるものもあるみたい)など、思いおもいの場所で、Weedを吸っているのが印象的でした。日本で大麻を所持することはもちろん違法なのですが、バンクーバーという街のなかで皆が楽しむ〝大麻〟には、ゆっくりとした平和な時間が漂っているように感じました。風や匂い、音や感情、友情、時間の流れ、愛などを大麻はより豊かに感じさせてくれるからかもしれません。

 

お酒や睡眠、運動、食事、恋愛、人生には様々なことがありますが、なにほども〝ほどよさ〟というものがあり、それも守らなければ失敗してしまうこともあるでしょう。自分自身を知り、自分に見合ったものを、よい気持ちの中でほどよく味わっていくのが、素敵なのかもしれません。

 

バンクーバーの街並みは、ヨーロッパほど整ってはいなく、また歴史も古くはありませんが、西欧風の建物や教会、古い建物と、最新の新しい高層マンションなどの建物や、様々な娯楽施設がダウンタウンやその周りにギュッと密集しているなぁ!という感覚でした。東京でいう表参道のような通りもありながら、道一本外れた通りにある公園の木にはリスがどんぐりをくわえて走っていたり、アライグマの親子や、臭い事で有名なスカンクちゃんに出会う事もできます。また、ビーチに行けばベンチの代わりに、大きな木の丸太が海岸と平行に置かれていて、そこに座ったり、もたれかかったりして、空飛ぶ鳥たちを眺めたり、打ち寄せる波に耳を傾けたりすることができます。

 

天気は夏季はカラッとした夏空が広がるそうですが、私たちが滞在した9月の初旬から下旬にかけては雨の日と晴れの日が半分半分ほどで、夏が終わり秋が訪れていることを感じました。気温は高くても22、3度、低いと12度くらいでした。けっこう肌寒かった!!夏以外の雨の多さからRaincouverとも呼ばれているそうです。地元の人々は雨の日でも傘はほとんどさしません。みんなフードをかぶる、もしくはなにもしない、雨がとても強くなった時だけ軒下で少し休むなどしていました。その姿がかっこいいので、もちろん私たちも傘は持ち歩きませんでした。

 

最後に、人!の話をしたいと思います。文章を書くのって大変ですね、結構疲れてきました。でもあと少し頑張ります!!

 

1番印象に残ったのはバンクーバーの街には、アジア系の人々が意外に多かったことと、ヤク中のホームレスが大量にいることでした。私たちの住んでいた家の近くには、大きなチャイナタウンがありましたし、若者からお年寄りまでたくさんのアジアの人々が生活していました。Wikipediaで調べたのですが、白人の割合は50%ちょっとで、そのほかの半分は、アジア人やラテン系、ターバンを巻いたイスラーム圏のひとびとやインド人など、いろんな人種の人々が混ざり合っていました。黒人の人々の数は意外と少ないようで、全体の数からしたら少数な印象がありました。

 

ダウンタウンに面したヘイスティングストリートという大通りがあります。ヘイスティングストリートを東に向かって歩いていくと、ある地点から東側の通り一帯には、大量のホームレスの人々が、路上で生活していました。日本のホームレスの人々と違う点は、そのほとんどが薬物中毒者であるということです。もともとバンクーバーはホームレスやヤク中が多かったらしいのですが、他の地域の安全性や治安をより良くするために、バンクーバーオリンピックの開催を機に、ヘイスティングストリート一帯にホームレスを集めたそうです。噂によると政府がヘイスティングストリート近辺の建物(病院!?)で、ヘロインやシャブなどどいった薬物を人々に配布することによって、ホームレスたちをヘイスティングストリート一帯に集めたそうです。カナダ政府えげつないですね。

 

バンクーバーの子供達は、学校の社会科見学(薬物の授業)として、バスに乗り、ヘイスティングストリートを通りヤク中ホームレス達の見学をするそうです。将来こうなりたくなかったら、絶対に薬物に手を出すなよ!!という戒めのためでもあり、実際に子供達に恐ろしさを体感させるためです。

 

実際に、私たちもKくんに連れられて、昼間のヘイスティングストリートを歩きました。〝治安が悪いといってもらそこまでじゃないだろう〟と、たかをくくっていましたが、想像を遥かに上回る衝撃でした。ほとんどバイオハザード。すれ違ったり道端に座っている人々の目は、完全にイッてしまっているし、道端であぶりをしている人、たぶんコカインではないとは思うけれど、大量の白い粉を手いっぱいに握り、鼻や口の周りを真っ白にしている兄ちゃん、いたるところに散乱する注射器の容器やその針。停まっているパトカーとごつい警察官。道に広げられる闇市の品々(全部盗品)。とにかく全てが想像を上回っていました。ヘイスティングストリートに隣接する、カフェや、スタバのトイレには、使用済みの注射器を捨てるためのボックスが設置されています。(やるならクリーンにやってねってことで、公園にもし、針が落ちていたら、子供達や、おしりが危ないからという意味です)比べられるわけじゃないのだけれど、日本でまあまあ治安が悪いと言われている。大阪の西成や、北九州とは比較にならないと思いました。けっこう本気でビビってしまいました。

 

一緒に歩いたKくんが説明してくれました。この人達の中には、薬物中毒になりたくてなっているわけじゃない人たちもたくさんいるよ。この人たちの中には生まれながらにして、すでに中毒者である、2世、3世の人たちもたくさんいて、お腹にいるときから母親が薬物を摂取しているために、生まれたときからこの環境に生き、抜け出すことができない、ひたすら堕ちるしかない人々もたくさんいるし、一度踏み込んでしまったひとは落ちていくしかないんだ。という事を説明してくれました。単に快楽を求めているから、とか育った環境がちょっと悪くて、とかそういうレベルの問題ではないと思います。もっとずっと深い理由がそこにはあり、カナダがかかえる、社会の問題や、歴史、理由を考えさせられました。同時に日本で暮らしている事。治安が良いことの有難さや、生きていくことについて考えさせられました。

 

治安の良さとは、周りの人々を信頼している、信頼できる社会という事だと思います。目を合わせてにっこりしなくとも、周りの人が自分に危害を加える恐れがない、ということをお互い認識しあっている社会です。そういう意味では、目を合わさずとも、日本は人と人とを信頼し合っている国であると思うので、これからもそういう国でありたいし、あって欲しいし、世界に誇れる日本の素晴らしいところだと感じました。

 

最後になりますが、外国の人々が目と目をあわせてにっこりしたり、他人同士であってもよく話しかけるのは、自分が相手に危害をくわえないこと、敵意を持っていない事を示すための重要な行動のひとつであると言われていますが、それを通して行われる、コミュニケーションの能力はすごくうらやましいと思いました。安全な日本であっては見知らぬ人同士はまず話さないし、相手を信用しているからこそ、目を合わしてにっこりするようなコミュニケーションも存在しない(たまにはあるかもしれないけれど、見知らぬ人に当然にっこりしたら、日本では気持ち悪いと思われるかもしれない)。だからこそ、ここまで信頼しあっている民族のなかにさらに欧米のようなコミュニケーション能力がもし備わっているならば、どの国にも自慢のできる、もっと素敵な国に日本はなっていけるだろうなと思いました。

 

ちょっとのお金と、時間と、感じる心を持って旅に出てみれば、なにかがそこには絶対あるはず!

 

さあ、今日も散歩いこう。

 

なんかいいことありそうでしょ!?

 

おわり

 

 

 

カナダドルにはメープルの香りがついている

ジブリの名作『耳をすませば』で、主人公の雫が空に低く飛ぶ飛行船を見て、〝今日はいいことありそう〟っていいますよね。あの言葉とっても好きなんです。ちなみに飛行船には〝Have a nice day〟って書いてあるんですよね。

 

というわけで!?バンクーバー行ってきました。最後に海外に行ったのが21歳のときだったと思うので、約8年ぶりに海外に行きました。とっても嬉しい!

 

たまたま仕事で久しぶりに会ったKくんが、9月の初旬からバンクーバーに行くという話を聞きました。Kくんが以前バンクーバーに住んでいた事を知っていた私は、Kくんの人柄も含めてKくんとならぜひ一緒に行ってみたい、1人で行く外国もいいけれど、その街を知っている友達と行ったら絶対に面白い!と思い、すぐにチケットを購入しました。滞在期間は約3週間で、往復のチケットを8万円で購入しました。デルタ航空です。久しぶりに海外旅行のチケットを取ったのですが、私が8年前に海外に行っていた頃よりとても安く、またインターネットサイトの普及で、いろんなチケットを比較しやすいので、簡単に安いチケットを手に入れることが出来ました。時期やタイミングにもよりますが、安ければ6万円ほどでも往復のチケットを購入できそうです。

 

今回の旅行はKくんとわたし、仕事の同僚であるNくんの3人で行きました。3人の旅行の大きな目的の1つは、週末のクラブにいき、良質な音楽と、現地の踊りビッチたちとともに、〝踊りまくる〟ことでした。

 

ちなみにその他やりたかったことは、Kくん大絶賛のクロワッサンを食べにいったり、公園でフリスビーをしたり、のほほんしたり、買い物をしたりなどすることでした。

 

バンクーバーで滞在する家はAirbnbで街の中心(ダウンタウン)から徒歩で25分ほどのところにある一軒家を借りました。3人で20万円ほど、一泊約5000円くらいでした。バンクーバーの物価は日本とほとんど変わりませんが、ステイする場所にかかる値段や、外食の値段(ウエイターのいる場所ではチップに15〜20%かかります)、タバコやお酒などに関しては高いなという印象がありました。ちなみにお店の中ではタバコな一切吸えませんが、外なら基本的にどこでもOK(たまに禁止の看板がある)、逆にアルコールはお店の中や家の中では飲めますが、外で飲んでいたら捕まります。アルコールも専用のリカーショップでしか購入できません。

 

今回の3人の目的はさきほども言いましたが、バンクーバーの良質(音質が良くて、いいDJがいて、いい踊り手がいる!)なクラブに行き、それを堪能することでした。なので、平日はカナダの大自然を満喫するでもなく(ほとんどどこにも行っていません。平日は週末に向けて体調を整えたり、体力の回復をはかっていました。とにかくがむしゃら遊びました!!毎朝、家に着く頃には足が棒のようでした)家でゆっくり過ごしたり、とっても美しい公園で散歩やフリスビーをしたり、カフェに行って美味しいコーヒーを飲みながら本を読んだりして過ごしていました。

 

つづく

 

死ぬことと見つけたり

隆慶一郎(1923~1989)という作家を知っていますか?

 

パチンコやアニメで有名な、花の慶次の原作『一夢庵風流記』や、江戸吉原を舞台にした『吉原御免状』などの、時代小説を書いている小説家であり、脚本家です。

 

〝時代小説〟というと、日本史に詳しくないと理解できなそう!なんだか文章が難しそう!漢字が多そう!などといった理由から、なかなか読み始める機会がない人が多いと思います。実際に私もそうでした。

 

初めて隆さんの作品を読んだのは、今から5年ほど前のことです。友人に、隆さんのある作品を勧められたことがきっかけでした。佐賀の鍋島藩の青年武士を主人公とした物語『死ぬこととみつけたり』という作品です。

 

まずタイトルかっこいいですよね。死ぬってこと!?死に方?死ぬことを見つけるってこと?どういうこと!?聞きなれない言い回しなので、タイトルを読んだだけでは、よく理解できません。

 

〝死ぬこととみつけたり〟とは、物語の筆者が戦時中に徴兵されたときに、実際に現場に持って行って読んだ『葉隠』という書物のなかの一節で、武士とはこうあるべきであるという、武士の心得が書かれた、江戸時代の書物です。

 

葉隠、そしてその中に登場する、死ぬことととみつけたり、という一節をキーワードに展開される武士の心得、生き様、思考の物語なのです。

 

隆さんは、もともと会社員や大学の講師をしていたそうです。そのあとは脚本家として活躍していて、小説家として活動したのは、晩年のわずか5年という短い期間でした。しかし、その中で数々の素晴らしい作品を生み出しました。

 

隆慶一郎作品の良いところは、どの作品も時代小説であり、時代背景は江戸時代など昔であるけれど、物語の登場人物の言葉や、せりふは現代の私たちにとても響きます。また、内容の全てがフィクションではなく、しっかりとした歴史的事実をもとに物語が繰り広げられ、そこに作者の豊かな想像力がプラスされているので、とてもわかりやすく、なおかつ勉強になります!歴史的事実と、歴史の空白を作者の想像力で補い、それ以上の物語を作っていくという作風は、漫画、『キングダム』と通ずるところがあると思います。しかし、わたしは原泰久さん以上に、隆さんの作品、想像(創造)力、物語をつくりあげる力を評価したいとおもいます。

 

とにかく、どの作品を読んでも引きこまれ、勇気や、やる気をもらったり、感動したり、ときには心痛くなったりします。

 

最後にわたしのオススメの隆慶一郎作品を紹介します。

 

吉原御免状

江戸吉原を舞台に、宮本武蔵に育てられた主人公が、吉原の人々や、幕府の陰謀、柳生家のとの関わりの中で成長していく物語。隆さんのデビュー作です。主人公の強さは、呂布や龐煖、範馬勇次郎を彷彿とさせるチートですが、それでもおもしろい!

 

一夢庵風流記

パチンコやアニメで誰もがしっているはず『花の慶次』の原作です。これもまた、無敵の強さを誇る主人公、前田慶次郎の物語です。相馬の松風や、相棒の奥村助右衛門が強すぎる。傾く(かぶく)ことに命をかけた傾奇者。どの時代にも必ず存在する、アウトサイダーたちの生き様の物語です。

 

影武者徳川家康

徳川家康は実は死んでいた!?あるときから、家康が影武者と入れ替わっていたのではないか!?とされる、歴史的見解から、作者の豊かな想像力と創作をもって書かれた作品です。上、中、下巻の1000ページを超える大作ですが、それだけの読み応えと、多くの歴史的事実を学べます!隆慶一郎を好きになったあなたなら、必ず読めるはず!!!

 

以上、

 

おわり

 

 

ユーロビートとEDMの始まり

前回、ハンガリーでの生活で衝撃を受けたことは〝音楽〟であると書きました。私がハンガリーを訪れていたのは、2007年から2008年にかけてでした。当時の私は17歳でした。いまから12年ほど前のことです。

 

音楽が好きになったのは両親の影響も大きいかと思いますが、記憶に残る限りでは私が小学4年生のある日をきっかけに大好きになっていきました。

 

音楽を聴くのはたいてい、車でかけられるCDからでした。父親と車に乗るときは、サザン、井上陽水イーグルスジャミロクワイ、リッキーマーティン、マライヤキャリー、サンタナがかかっていました。サザンの〝愛の言霊〟、イーグルスの〝ホテル・カルフォルニア〟、リッキーマーティンの〝Livin’la Vida Loca〟、サンタナの〝Smooth〟は子供ながらにとても印象に残っています。いまでも大好きな曲たちです。父が夏のプールサイドで桑田圭祐の作る曲のとそれにマッチした彼の声の良さを話していたことをよく覚えています。

 

母親と車に乗るとかかるのは、ほぼ100%、ユーミンでした。CDで聴くユーミンの歌声は素晴らしいし、いろんな楽器を使って音楽を作っているところが好きなんだと言っていました。母は、一度だけユーミンのコンサートに行ったことがあるそうなのですが、生ユーミンは歌が下手だった!という話を100回は聞かされました。

 

先程、音楽が好きになったのは、小学4年生のある日と書きました。それは、私が小学4年生のとき2つ学年が上のYくんの家に遊びに行った日のことでした。Yくんがたまたま持っていたCDウォークマンを貸してもらい、彼の部屋の2段ベッドに横たわりながら、嵐のデビュー曲〝A・RA・SHI〟を聴いたのです。当時、父親もCDウォークマンを持っていましたが、家でウォークマンを使いイヤフォンから音楽を聴いたことはありませんでした。Yくんの家でCDウォークマンを借り、イヤフォンから聴くその曲は、ガーッン!!という衝撃とともに頭の中、耳と耳とのちょうど真ん中に突き抜け、身体が震えるような感覚でした!なんて素晴らしい曲なんだろう!小学4年せいなりに「テンション上がるぅぅう〜」と感動しました。きっとイヤフォンを通して聴いた、音の大きさや密閉感がいままでの車のステレオとは違った感覚を、耳や頭にもたらしたんでしょう。この体験が僕が記憶の中で〝音楽〟というものに本当に感動した、1番最初の出来事でした。

 

たしか小学5年生になると、お年玉を貯めたお金で自分自身のMDウォークマンを購入しました。ちょうどMDが爆発的に流行り始めたころです。KENWOODの銀色っぽいMDウォークマンでした。それに合わせてKENWOODのコンポも購入しました。両親に多少はお金出してもらったかもしれません。そこからとにかく、たくさんのMDカセットをコンポを使っては作りました。MDカセットの表面に貼るシールのうえに、曲のタイトルを並べて自分だけのオリジナルアルバムを作っていくのでした。

 

ここから3年後に新たなる衝撃が私を襲いました。〝iPod〟を手に入れたのです。

 

KENWOODのMDプレイヤーは1年半ほど使ったところで壊れてしまいました。とても残念だったのですが、すぐにSONYの淡いピンク色をしたMDウォークマンを買いました。しかし、そのウォークマンも1年半ほど使うと壊れてしまったのです。当時中学2年生になりたてくらいの時期でした。その1年ほど前からiPodの存在は知っていましたが、Appleの製品が日本にまだそこまで浸透していませんでしたし、中学生なので、情報にも乏しく、我が家にパソコンが来てからもそれほど経っていないような時期でしたので、〝購入する〟という気や、タイミングがありませんでした。しかし、2代目のMDウォークマンが壊れたことをきっかけにせっかくなのでiPodを買ってみることにしたんです。

 

地元にある家電量販店にいくと、入荷までどれくらいかかるかわからない、早くて2週間、いや1ヶ月以上かかるかもしれないとのことでした。しかし、購入してから最短の2週間で手に入れることができました。

 

いままで、おぼろげな記憶ですが、多くても1つのMDカセットにいれる曲の量は、30曲くらいでしたが、私の買ったiPodの容量はなんと20GB!!! 今からしたらたいした容量ではないですが、当時からしたらありえないほどの容量でした。1つのiPodに5000曲もの音楽を入れることができるのです。夢のようでした。私が購入したのは第4世代のiPodで、分厚く、重量感があり、画面はまだ白黒でしたが、本体の裏は銀色でピカピカに光輝いていました。

 

それからというものの、わたしは足繁く地元のTSUTAYAに通い、CDを片っ端から借りてはパソコンに挿入し、iTunesに曲を入れまくっていきました。だいぶお金使ったと思います。両親にCDRでオリジナルのCDを作ってあげるかわりに、CDのレンタル代をちょこちょこもらっていました。

 

iPodを手に入れた私はとにかくたくさんの音楽をいつどこにでも持ち歩き聴くことができました。ちなみに始めてCDを購入したのは小学5年生のころDragon Ashの〝Life goes on〟でした。父親にこの音楽のどういうところが好きなのか尋ねられましたが、とにかくかっこいいんだよ!ということしか言えませんでした。言葉で説明できないし、英語やシャウトしている部分は何をいっているかわかりませんでしたが、とにかく、〝カッコよかった〟んです。

 

さて、ようやく本題に戻ります。17歳の頃の僕は、2代目のより容量の大きくなったiPodを手に入れていました。中学から高校生にかけては、Green DaySUM41, Good CharlotteGorIllazFoo FightersLinkin Parkなどの洋楽にとにかくはまっていました。

 

私は高校3年生の夏からハンガリー🇭🇺に留学しました。最初の何ヶ月かはハンガリー語はおろか、英語もなかなか話せない状態でしたが、音楽については世界共通でいつでも話しができました。ある日、仲の良い友達のマーティンがUSBに彼のオススメの曲をたくさん入れて、僕に渡してくれました。私はそのデータをiPodに入れてさっそく聴き始めたのですが、まさに衝撃でした!当時のハンガリーで流行っている曲や欧米での有名曲もはいっていたのですが、その中には当時でいう、ユーロビートや、EDMの先駆けとも言える数々の曲が入っていました。ちょうどデビットゲッタが徐々に有名になり始めたのも、その頃だったと思います。Cascadaや、Scooterなどといった。日本に住んでいた17歳の私では見つけることのできなかった、アーティストやさまざまな曲を聴くことができました。ビートの効いた重低音とメロディー、4つ打ちのリズムにひたすら感動しました。

 

週末になると、友達に連れられてクラブにいくようになりました。高校生が行くようなクラブなので、音はディープな感じではなく、割と当時のヨーロッパの流行りの曲や、ポップな曲がほとんどでしたが、それでも〝こんな音楽が世界にはあるんだ!〝といつも感動し、とにかく大好きになりました。

 

作曲を仕事にしている大学の先輩が言っていました。音楽の流行りの周期は大体10年ごとで、10年を区切りにトレンドが変わっていくそうです。

 

わたしがハンガリーに住みEDMが流行り始めたのが2008年頃、この10年間でEDMは爆発的に流行り、数々の素晴らしい曲や、DJが誕生しました。わたしの感覚では2017、18年ごろにEDMは落ち着き、トレンドが変わってきたと思います。ちょうど10年くらいですね。

 

今は逆に、正当なテクノやハウス、すこしトランス気味だったり、ディープハウス、アンダーグラウンドなテクノなどといった、原点回帰!というような音楽が流行っている感じがします。みんな、つぎの新しい潮流を探しているんでしょう。

 

わたしは、EDMにはそこまではまらず、昔からテクノが大好きです。正当な4つ打ちのリズムが好きなんです。なので、今年や、来年、再来年にかけて、いまのテクノブームからどんな新しい音楽が生まれてくるのかとてもたのしみにしています。

 

さいごに、最近YouTubeを観ていて、1番行きたいなと思ったパーティーを載せておきます。

 

https://youtu.be/HIorfPOwqL0

 

おわり

 

 

ハンガリー

ハンガリーの話を書きたいと思います。ハンガリーってなかなか馴染みのない国ですよね。私は高校3年生の時に留学生として現地の高校に1年間通っていました。

 

AFSという、高校生専門の留学機関を通してハンガリーに留学し、ホストをしてくれる現地のハンガリー人の家族と共に生活していました。

 

高校は日本でいう県立高校のような、地元の高校に通い、全ての教科をハンガリー語で受けていました。最初の何ヶ月かは、ハンガリー語で授業を受けても全く理解できませんでしたが、半年ほどたった頃から日常会話をハンガリーで話し、授業は徐々に理解できる部分が増えました。ただ、歴史や物理、化学の授業は最後まで理解できませんでした。専門用語が多すぎました。わからない授業の時は日本から持ってきたハンガリー語の本を開き、ひたすら単語を覚え徐々にボキャブラリーを増やしていきました。

 

ハンガリーの首都はブダペストですが、私はハンガリーで4番目くらいの規模の町に住んでいました。セーケシュフェヘールバールという、ブダペストから車で1時間半ほどの小さな町で、街並みはとても美しく、特にヨーロッパ特有の石畳みの道が大好きでした。家族は、お父さん、お母さん、4歳上のお姉ちゃんと、1つ年上のお兄ちゃんの4人家族でした。みんな背がとても高く、お父さんも兄ちゃんも190cm以上ありました。

 

ハンガリーというなかなか日本には馴染みのない、〝東欧〟と呼ばれる場所に位置するこの国には、山がありません。あっても丘と呼べるくらいの高低差で、少し町から離れると道の両脇にはひたすら地平線が続きます。ホストファミリーの家は、町の中心からバスで30分ほどの場所に位置していたので、毎朝通学するときや、帰りのバスからよく地平線を眺めては、感動したり、ワクワクしたり、時には少し寂しさを感じたりしていました。

 

セーケシュフェヘールバールの町には外国人はほとんど住んでいませんでした。もちろんアジア人も全くといっていいほどいないので、はじめの頃は町を歩くとみんなに見られました。しかし、小さな町なので徐々に友達は顔見知りが増えていき、授業終わりにばったりであった友達と、そのまま公園や湖に遊びに行くこともよくありました。

 

ヨーロッパのティーンエイジャーは、日本で育った私からみると、とても大人びていていました。みんなが大好きなのはシーシャと呼ばれる水タバコで、リュックに入れられる小さなものを持ち運んで、公園でよく吸っていました。りんごやブルーベリー、チョコなど色々なフレーバーがあります。私たちはスーパーでビールを買っては、シーシャを吸いながら公園でビールをよく飲んでいました。晴れた日の夕方に友達といる公園はとても美しく、〝ザ、私の青春の1ページ〟って感じです!

 

週末にはさまざまな場所でイベントが開かれました。クラブであったり、バンドの生演奏だったり、バラトン湖という湖でのビーチパーティーなどです。セーケシュフェヘールバールにもたくさんのクラブがありますが、高校生が集まるところ、大学生が集まるところ、もっと大人の人たちが遊ぶところといったように、年代別に遊ぶ場所が分かれていました。さらに高校ごとにも行きつけのクラブやバーがあり、週末になると私たちはそこに集まってべろべろに酔っ払ったり、とことん話したり、びしょびしょになるまで踊りました。真冬にでもクラブの中の熱気がすごく、汗でびょしょびしょになるのですが、そのまま極寒の外に出て、ひと休みするのがとても心地よいのです。

 

週末を通じて友達とより仲良くなり、ハンガリー語もどんどん上達しました。お酒にも強くなりました。でも、私に一番の衝撃を与えたのは音楽でした。

 

次回に続く